祭るようにつくる。


先日、マンガ家のT田さんとシュベールで話した時に考えさせられることを言われた。
T田さんは物腰の柔らかい方なのではっきりした物言いはしないが、丁寧に話してくれた内容をごく簡潔に言うと
「あなたは物書きに向いていないですね」ということだった。

T田さんはそう思う理由を話してくれた。
私は趣味が多い。友達も多い。楽しい企みをいくつも抱えている。
現実世界に刺激的な引き出しをたくさん持っているから、一人だけの物語の世界に向かわなくても充分現実で充実できる。
半年間私と接していてそう感じたのだそう。

 

嬉しいような寂しいような、図星のような的外れのような、くすぐったい気分だった。

「現にこのマンガを描く企画だって、描くことそのものよりも、この取り組みを通じて私や人とつながることを楽しんでいるでしょう?」

そうかもしれない。
ヘンリー・ダーガーという人がいる。
半世紀以上自室にこもって誰に見せる予定のない挿絵小説を書き続けた人だ。その分量は1万5000ページに及び、世界一長い長編小説とも言われている。
自分にはとてもそんな真似はできない。
誰にも見てもらえない作品をつくることは考えられない。

初めて彫った仏像をFBにアップした時、びっくりした。
みんなからもらった反応がとても優しかったから。
自分の中では今までやってきた他のことも仏像も何かの発露という意味では変わりないのに、仏さんになった途端なんか高尚な感じで評価してもらえるようになって、仏教って、宗教ってすごいなあ!と感心した。
それが心地好いから仏さんを彫り続けているのかもしれない。
ヘンリー・ダーガーの境地には一生至れそうもない。

f:id:chove-chovo:20160602183530j:image

友達の女の子がこんなツイートをしていた。

今までの自分の向上心の高さとか勤勉さは誰かに認められたい願望から生じるものだったらしく、ありのままの私を認めてくれる人に出くわした途端ダメ人間化が止まりません。

 誰かに承認されるための精進、誰かとつながるための創作。
そういう自分に芯から気付けた人は強いのかもしれない。

つながるため、という目的に主眼をおいてつくると、仕上がりが大分違ってくるだろう。
いま仕込んでいることは、人に届くものになってる?
芸術性にまやかされて、人とつながる用途に欠けたものになってない?

私は祭をしたい。
一人でも大勢でも構わないけど、祭に見える生き方をしたい。

T田さんとは幸せに関する話もした。
T田さんがテレビで聞きかじった話によると、何十年にもわたる調査の結果、幸せな人生を送っている人の共通点は「いざという時頼れる人がいること」だそう。

自分のことを振り返ってみた。
20歳くらいの時、つらいことがあって、でも誰にも言えずに駅のホームでずっと携帯のアドレス帳をスクロールしてた。
30手前くらいの頃、つらいことがあって、意識も朦朧としている中で友達に連絡をとって家に泊めてもらった。
今は、もしつらいことがあっても、この人にならと思える人が何人かいる。実際その時になってみたらやっぱり遠慮してしまうかもしれないけど。

なんで人はものをつくるんだろう。
最終的に、作品を通して人とつながることの他に何があるんだろう。
人の幸せの指標が他人の存在にあるんだとしたら、やはりつくることには他人の存在なしにはいられないのではないか。
ヘンリー・ダーガーに教えてほしい。

これから私は、私を泊めてくれた人に返すような何かをつくっていきたいし、
私の存在が誰かにとって泊まりたいと思うような何かであって欲しいという気持ちでつくっていきたいし、
それら全部ひっくるめて、お祭りをするようにすべてをつくっていきたい。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です