ショビ書房のホリディ

マンガ・仏像彫り日記・℃-ute・ハロプロなどについて書いています。

銭湯と古代神話

間が空いてしまいましたが、以前書いた銭湯ルポの後編です。

 

岡野弘彦氏の話

文京区は護国寺にある月の湯で、ご主人のこぼれ話と銭湯の文化保護活動を行っている文京区建築会ユースの取り組みを聞いた後は、歌人の岡野弘彦氏からお話をうかがいました。

 

f:id:chove-chovo:20150529114126j:image
 
岡野氏は折口信夫の一番弟子であり、民俗学から短歌の世界へ行った国文学者です。
短歌の草稿はほとんどお風呂で行う程のお風呂好き。この日は日本神話から解く日本人と風呂の密接な繋がりについて語って頂きました。
 

神道における風呂の意味

神職にとって入浴は「みそぎ」です。
みそぎとは一般的に「穢れ」を取りはらい浄める行為とされています。なので、神主はトイレをする度にみそぎをしなければならないので、なるべく水分を取らないようにしているらしいです。
一時は「モチを食べると尿の頻度が減るらしい」という俗説からモチをよく食べる神主さんが多くいたとか・・・・。大変ですね笑
 
 

みそぎ=生み出す行為?

日本の創世神イザナギとイザナミ。
二人ががみそぎをして生まれたのが太陽神アマテラスです。
アマテラスは日本の神々の中でも最も重要とされるエースメンです。そんな彼女が穢れをはらう行為の中で誕生するというのは不思議ではないでしょうか。
そこから岡野氏は「みそぎは本来、穢れを取るだけではなく生み出す行為であった」と説きます。
そしてそんな古来から伝わる「みそぎ」の感覚が日本人の風呂文化を支えているのだろうと岡野氏は指摘。垢を落としながら緩やかにクリエイティビティを担保する場所、それが日本のお風呂であるということでしょう。
 

傷を癒す場としての風呂

日本と風呂の関係を考える上でもう一つ重要なのは日本が火山国であるということです。
日本人は古来から自然に湧き立つ温泉に入ると傷が癒されるという効能を肌で知っていました。
日本人は温泉が大好きです。とりわけ「源泉かけ流し」の温泉って妙にありがたがられますよね。
自然と一体になって身体を温め癒すという古来の日本人の記憶が温泉や源泉かけ流しに憧憬を覚えているのかもしれません。
 
 
日本人にとってお風呂は、穢れを落とす・創造する・傷を癒すという意味を持っている、というこうですが、岡野氏は更に話を深く進めます。
 
島国という地理の特性ゆえに日本は、海水を媒介して外から神様がやってくるという信仰心を持っています。自然崇拝はもとより、山と海の信仰が分断されておらず緩やかであるというのです。
 
また、日本神話は階級意識も緩やかです。
沐浴という宗教儀式を持つインドでは、階級で浄める場所がちゃんと分けられています。
それに対して日本の施浴は境界がルーズです。古代から神社の浴場はよく民衆に開放されたそうです。また有名な逸話では光明皇后が1000人の民衆の背中を洗い流したところ功徳で自分の身体が光り輝いたという伝説もあります。
海水と内地。神と民衆。そこの行き来が容易でルーズであるというのは日本の特性です。
 
そこで風呂における「内と外」を考えてみましょう。
内風呂(家のお風呂)と外風呂(銭湯や温泉)には何の違いがあるでしょうか。
銭湯は老若や立場を問わず裸で打ち解けられるコミュニケーションの場、とよく言われます。しかし一方で、裸になる事や汚れを流すというプライベートな面において公衆浴場でのコミュニケーションを敬遠する現代人が多いのも事実です。
 
家じゃないけど外とも言い切れない。
閉じられた内で行われるはずのプライベートな生業を外の公衆の場で行う銭湯・温泉という
境界線の非常に曖昧な場。
その曖昧さに惹かれる人もいれば遠ざかる人もいるということにもっと敏感になれば
「外からやって来る日本の神様」の深い意味がもっと分かるのではないかなあと思ったり・・・・ここに関しては個人の雑感止まりで、まだ消化しきれていません。
 
 

風呂で創作する理由

これだけ深い考察を広げても岡野氏は、風呂で短歌を作る理由について「自分でもよく分からないんだよね〜」と首をかしげていたのが印象的でした。
 
 
 

これからの風呂は?銭湯は?

以下、個人的メモです。
 
風呂、みそぎと祭りの親和性の高さ。ディズニー的な、一歩入ると耳をつけていてもいいような場所。非日常(中学生がカラオケして老人がそれを愛でるような場所)が生まれやすい仕組みづくり。
もしくは直島のように文化的芸術的価値を前面に出しては?
文京区建築会ユース代表の方の話、月の湯は文京区の密集地にポカンと空いた歴史的大空間。そこに460円で入れる価値の大きさ、贅沢さを知って欲しい。