ショビ書房のホリディ

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「縄文号とパクール号の航海」-意味のないことの強度-

国立では関野吉晴さんの名前がよく出てくる。
一橋大学出身で、現在は武蔵野美術大学の教授をしているので、国立には縁の深い方だ。

グレートジャーニー―地球を這う〈1〉南米~アラスカ篇 (ちくま新書)

グレートジャーニー―地球を這う〈1〉南米~アラスカ篇 (ちくま新書)

 

 
先日、「縄文号とパクール号の航海」という関野さんの航海旅を追ったドキュメンタリー映画が国立で上映されるというので観に行った。

 

探検と冒険の違い


上映後のトークショーでは、グレートジャーニー関野吉晴さんにしか語れない境地を垣間見させてもらった。

関野さんの肩書きは「探検家」。
「探検家」の人たちは、「冒険家」と呼ばれることに敏感なんだそう。
あまり探検と縁の無い人間からしたらどちらも大して違いが無いように思えるが、「ケンの字が違う」という。
探検のケンは“検査”のケン。
対して冒険のケンは“危険”のケンだ、と。

つまり、探検家は探索して未知の事物を調査することであり、
危険を冒すそれ自体を目的とする冒険家とはまったく別であるとのこと。

ところが、旅を重ねるうちに関野さんの考え方は変わってきたそうだ。

元々の「探検」とは植民地の調査であった。
植民地調査は国を背負った仕事である。
自分は国を背負ってはいない。ただ馬鹿なことを夢中でやってるだけだ。
また、「探検」という行為は光を当てる角度によって価値が変わる。
国や政府から見ると立派だが、調査される現地人から見ると悪の所業である、というようなことが「探検」にはままある。
それよりは誰にとっても価値のない、どうでもいい馬鹿なことを一生懸命やることの方が大事なのではないか?
関野さんはそう思うようになったらしい。

「なんでこんなことをやってるかは自分にもよく分からない」
「自分のやっていることは役に立たない馬鹿なこと」
こういった意識が、関野さんの中に信念として根強く息づいていると感じた。

だから、一連のグレートジャーニーにおける社会的意義というようなものを、関野さんは無理に見い出そうとしない。
グレートジャーニーが資金難で中断された直後に阪神大震災が発生。
医師として被災地支援に行った際に、関野さんは自分がグレートジャーニーであることを被災者に喜ばれ、元気づけることができたという。

そんな経験を踏まえた関野さんの実感は
「自分たちが何かの為に旅をやっている、というような気持ちは結果論でしかない」
だった。
国のためにやっているわけでも、被災者を元気づけるためにやっているわけでもない。
よく分からない何かに突き動かされるようにして、ただがむしゃらにやってきたことが、結果的に人々に影響をもたらしている。

裏を返せば、常にやりたいことが先立つということ。
意味なんてないことこそが己を強く動かし、他人を大きく巻き込む。
そんな風に私には聞こえた。

 

遊びの強度-震災と表現-


「縄文号とパクール号の航海」の監督である水本さんと上映後話すことができた。
ドキュメンタリー映画は、膨大な量の映像の中から何を選び、どのような順番で並べるかで、伝わることが全く変わる。
足かけ4年、移動距離4700kmという途方もない長旅の撮影記録をたった2時間に削り落とすという作業を監督はどのような視点で行ったんだろう?私はそこに興味があった。

映画「縄文号とパクール号の航海」は、その壮大なコンセプトとは不釣り合いなくらいに淡々と進む。大木を伐って原始的な船を作り、大海原へ飛び出し、仲間との小競り合いを経て絆を深め、自然の妨害による2度の中断を余儀なくされながらも不屈の精神でゴールに辿り着く。切り取りの仕方によってはいくらでもドラマチックな仕立てにできそうな所をこの映画はそうしない。
ようやくゴールの日本に辿り着いたシーンに至っては涙ひとつなく、「〇〇〇が海水でもうヒリヒリだぜ~」なんてシモで終わる。
まるで「探検というのはそういうものだ」と言われているようだ。

まるで縄文号とパクール号のようにゆっくりと歩を進めていく中で、旅の均衡を大きく崩す出来事が起きる。
仲間の事故死と、その翌日に起きた東日本大震災だ。

映画では、死んだ仲間の人柄や家族について長く触れる。
そして、東日本大震災についても長く触れる。ほとんどが航海シーンである中で少し異質とも思えるくらいに。
それについて監督に尋ねてみたところ、監督は
「震災の部分がこの映画の背骨だと思ってます」
と答えた。

関野さんのやっていることは大いなる遊びである。
容赦ない現実が目の前に現れた時、遊びの強度とはどれ程のものなのか?
・・・・ということがこの映画のテーマなんだと私は解釈した。

東日本大震災で私が最も強く考えさせられたのは正にそこだった。
震災をきっかけに、多くの表現者が自分の営為の意味のなさに愕然とさせられた。
中には本当に断筆してしまう作家まで現れた。
しかし一方では逆に急き立てられるように創作活動を強めた人もいた。
この違いは何なんだろうか?
表現者としての覚悟の違い、と一言で片づけられない疑問を震災は残した。

関野さんと日本人同行クルーもやはり例に漏れず自分たちのやっていることに迷いが生じ、被災地支援に赴く。
とりわけクルーにとって、津波はかなりのショックだったに違いない。

被災者の人たちとの交流を経て、関野さんたちは再び航海を始める。
そこに関野さんの葛藤はほとんど描かれない。
でも、あの震災直後のなんでもかんでも「不謹慎」と言われてしまうような張りつめた空気の中で、ボロ船で海を渡るなんて行為を行うのにどれだけの強い意志が要るのだろう?
本当にすごい。自分の安易な言葉では纏められない。
その凄みが、「馬鹿なこと・意味のないこと・役に立たないこと・ただの遊び」って何なんだ、と心の中に問いかけてくる。

まだ関野さんのことをよく知らなかった頃は、なんで探検家のお医者さんが美大の先生なんだろう?と思っていた。
でもこの映画を観てよく分かった。関野さんのやっていることはアートの一環だった。
「やってみたいと思い付いた」から始まった、誰の役にも立たない馬鹿な遊びが、結果として人の心を動かし、必要とされる。
表現とはそういうものなんだろう。

かく言う私も、私なりの角度でとても勇気づけられました。
このタイミングで観られてよかったです。

 


この映画はまだDVD化されていません。
9/15まで大阪で公開されるそうです。

www.sekino.info

 

 ↓航海について書かれた書籍です。

海のグレートジャーニーと若者たち?4700キロの気づきの旅

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 ↓縄文号とパクール号を作っている部分はDVD化されています。

僕らのカヌーができるまで [DVD]

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