ショビ書房のホリディ

マンガ・仏像彫り日記・℃-ute・ハロプロなどについて書いています。

足りない少女たちの青春を描くマンガ「ちーちゃんはちょっと足りない」「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

国立駅前のブックオフでマンガを探していたら、ちょっと目を引く棚がありました。

 

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あ行の出版社と秋田書店の境目が少しずれたのでしょうか。
それとも誰かのいたずらでしょうか?
版元の違う「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」と「ちーちゃんはちょっと足りない」が隣りあって並んでいました。

 

足りないおんなのこたちの世界

阿倍共実「ちーちゃんはちょっと足りない」は「このマンガがスゴイ!2015オンナ編」の1位に輝いたマンガです。
一見、ほのぼのした学園4コマギャグのような作風で、実際に物語の序盤はほんわかしたお話しなのですが、途中で部費の入った封筒が教室でなくなるという事件が起きてから話が思わぬ方向へ展開していきます。

 

 

主人公のちーちゃんはちょっと足りない女の子。
学校の勉強ができなくて、空気もちょっと読めなくて、周りから浮きがちな、でも底抜けに明るくて憎めない、マスコットキャラのような女の子です。


いつも騒動を起こしてしまう彼女を中心にして物語は回っていくのですが、この作品で大事なのは、ちーちゃんの“分かりやすい足りなさ”の影に隠れて、周りのおんなのこたちも様々な足りなさを抱えているという点です。
親の経済力の足りなさ。気になる男の子に思うように近付けない足りなさ。致命的な人間としての器の足りなさ。
中学生になって他人との違いが浮き彫りになっていく中で痛感するいろんな足りなさを、無垢なちーちゃんの存在がよりいっそう際立たせていきます。


そしてもう一冊の押見修造「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

 

 

こちらは「ちーちゃん~」と比べてもっと分かりやすく“足りない”女の子のお話し。
主人公の志乃ちゃんは吃音者で、言葉がつっかえてしまい思うように話せません。
志乃ちゃんは友達のいない学校生活を送る中で、中2病気味な音楽少女・加代と出会い、歌を歌っている時はどもらない自分に気付き、バンドを組みます。

志乃と加代、ふたりの不器用な少女が音楽を通してつながる手さぐりの友情と、中盤から現れる菊池というリア充男子によって乱される感情が、ページをめくる手を最後まで止めさせてくれません。

作者の押見修造さんは昔から好きな漫画家さんです。
初めて読んだのは漫画アクションで連載していた「漂流ネットカフェ」でした。当時はまだそこまで有名ではない作家さんだったということもあり、大風呂敷広げっぱなしになりやすい異世界サバイバルものをさして期待もせず読んでいましたが、
思いがけずラストに感動してしまい、以来新作は必ずチェックするようにしています。

「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」のあとがきには、押見先生自身がかつて吃音症で、その経験を下敷きにして描いたという告白があります。
一部、引用します。

 

 僕はよく、「話にカタルシスが無いね」と言われます。どうしても、何かのエピソードトークをしなければならないとき、本当は、頭の中では盛り上がりのある話が組み立っているのですが、口に出すとどうしても、どもる恐怖に耐えきれずさっさとオチまで話してしまいます。なので当然ウケず、あとで自己嫌悪に苛まれるというわけです。
 
しかし、悪いことばかりでもなかったと押見さんは続けます。
言いたかったことや、想いが、心のなかに封じ込められていったお陰で、漫画という形にしてそれを爆発させられたことです。
つまり、吃音じゃなかったら、僕は漫画家にはなれなかったかもしれないということです。
勿論、吃音だったから漫画家になれた、というわけではありません。しかし、吃音という特徴と、僕の人格は、もはや切り離せないものになっているということです。
 
押見さんは最後に、「吃音」「どもり」といった、志乃ちゃんの特性を直接的に表現する言葉を作品内で使用しなかった理由について述べていました。
それは、ただの「吃音漫画」にしたくなかったからです。
とても個人的でありながら、誰にでも当てはまる物語になればいいな、と思って描きました。
 
「ちーちゃん~」の主人公ちーちゃんも、冷静に読めばおそらくADHD(注意欠陥・多動性障害)か、何かしらの発達障害にあたると思われます。
おそらく作者もそのような設定で描いているのでしょう。突拍子の無いファンタジーキャラクターにしては、ちーちゃんにまつわるエピソードがあまりにリアルなのです。
しかし、本文中には「障害」「病気」というような言葉は一切出てきません。ちーちゃんは最初から最後まで愛らしいトリックスターであり続けます。

「ちーちゃん~」のこういった描写と、押見修造氏の言う「誰にでも当てはまる物語」には根底で共有している“足りない少年少女たち”への思いがあるように感じます。
 
「ちーちゃんはちょっと足りない」と「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」。
同時代に描かれ、タイトルの非常に似通った、この少女たちのないない尽くしの物語。
青春が、ないものに対する果てしない希求によって形づくられるものなのだとしたら、この2作ほど少女の青春にふさわしい物語はないんじゃないかと、
国立のブックオフでしばし立ち止まりながらそう思いました。